死産の記録

2018年8月、20週で死産しました。赤ちゃんが確実にいた証と気持ちを残しておきたくて。

死産後の検診

死産後3週間目の検診でした。経膣エコーで見た子宮は、少し大きいような気もするけれど、血の塊もなく、なにもなく、先生も綺麗な状態ですねと言ってくれた。子宮の中に赤ちゃんがいたことが信じられないくらい。お腹にいたことのほうが不思議。奇跡だったのだなあ、、お腹にいないことが悲しくて、少し泣いてしまった。

お風呂に入ってもよいと許可も出て、夫婦生活も大丈夫、もう普通の生活をしてくださいとお墨付きをもらった。生理は2回きたら、妊活に入ってもいいとのこと。10月中にこないようであれば、再診してもらうことに。私はプロラクチノーマでもあるので、生理が来ない場合は妊活に入るのが遅れるので、カバサールをもらう。

胎児の脳出血は、とてもめずらしいらしく、妊娠できたら再発の可能性はほとんど無いので、心配しないでくださいねとのこと。あこちゃん、、なんで、そんなめずらしい病気に、、あこちゃんが守ってくれているおかげで、私の身体はすごく順調に回復しています。ありがとう。

今日は気持ちはおだやかな一日だったけど、どうしようもない状態になることもある。明日はどうかな。

入院おぼえがき:3日目、2

今日は絶飲食で分娩準備のため、点滴で水分を補給する。のどがかわくってつらい。陣痛促進剤を朝の処置で入れたので、ゆるい陣痛みたいなものを感じる。でも、まだまだ出てこなさそう。朝の処置でも夕方に出てきてくれたらいいねと言われたのでおとなしく待つ。夫は一度、自宅に帰りお風呂や仕事を済ませる。

お昼もすぎて、一応感覚は短くなるけれど、まだまだそう。そんな中、念のためLDRという分娩もできて、休憩もできるお部屋に行く。でもまだまだ出てこなさそう。チェックしてもらっても、出てきそうだけれど、まだ子宮口が開いてないという。膣ももう痛くて、痛くて限界。夕方になって、さらにのどもかわいてきた。

入院おぼえがき:3日目とあこへの気持ち

朝から処置室へ。夫は今日は1日なんとか、職場に行かなくても大丈夫そう。PCと携帯でなんとか仕事をしてくれるらしい。

朝からラミナリアを抜く。昨日夜よりはかは、少しましだけれど、心が折れているのでもうこれ以上の処置は耐えられない。最後にあこちゃんのエコーをして、どこにいるか向きはどうなっているか見て修了。これが生きているあこちゃんを見た最後だ。でも、もう脳死みたいなものだったものね。自由に動いたり、意思を持ったりすることはもうすでになくなってたものね。外に出て、魂になって、自由にどこにでも冒険に行ける方がいい。私も夫も、脳死や自分の意識がなくなってたら、延命措置はしないでおこうと決めている。残された方は、それを踏まえたうえで、どうするか考えることになっている。私達二人の子だから、あこは、早く、自由にさせてあげたかった。

入院おぼえがき:2日目、3

夜は夫が宿泊許可を2泊とってくれたので、一緒に寝た。ベッドはシングル弱くらいの広さだけれど、横に手すりがあるから落ちる心配もなく、夫は小柄なので問題なかった。空調も適切で、むしろ家でもこの小さいスペースで寝れるのではないかと思うくらい快適だった。お腹のあこちゃんと3人で寝るのは最後の日かな、と思いながらお腹をなでる。明日出てこなかったら、金曜日に出すことになるけれど、夫はその日はどうしても仕事に行かなくてはいけない。頑張って明日に出てきてねと話かける。ずっとお腹にいてほしいけれど、出さなければという使命感もあって、複雑な気持ちだった。

朝方4時くらいに破水。ふと目が覚めると、布団とパジャマが水浸しだった。ナースコールで看護師さんを呼ぶ。布団をかえてもらい、急きょレンタルパジャマを借りる。破水したから、これで明日はラミナリア抜くだけかな、すごい順調なんだな、、!とほっとした。破水しても、すぐに内診とかではなくて、また明日朝に処置室で内診するので、それまで休んでてくださいと言われる。借りたパジャマと、入院セットで最初にもらったお産セットの入っている産褥ショーツと産褥パットをとりあえずあてて、布団を代えてもらったベッドで寝る。1人の時じゃなくてよかった!

病院に行った

今日は、死産後初めて1人で外出だった。退院時に血液の検査で炎症値と白血球の異常値が出ていたので、確認のために病院に行った。あこちゃんをあきらめることを告げた時の女医さんが、入院中からずっと顔を出してれて、血液検査の結果も彼女が担当してくれた。女医さんの顔を見ると、どうしてもあこちゃんと思い出し泣いてしまう。女医さんはいろいろ心配してくれて、 話も聞けるし、眠れなかったら薬も出せるよと言ってくれる。たぶん、あこちゃんちぎれて出てきたから、壮絶な分娩だったのだろう。私は麻酔で寝ていたから、あこちゃんが出てきた瞬間も、ちぎれた瞬間も、お腹から手でひっぱってもらってあこちゃんを出してもらった痛さもしらない。この麻酔での分娩はあこちゃんが私を慮ってくれたのだと思っている。産声もあげず、痛いばかりで、あこちゃんも横から出てきてるし、そんな分娩を私が耐えられないから、静脈麻酔での分娩の運びになるように、あこちゃんがしてくれたのだと。もし、意識がある状態であったなら、あこちゃんの状態を感じて精神が壊れていたと思う。意識がなかったおかげで、私の精神ダメージも最小限で、身体は何の問題もなく、順調そのものである。あこちゃんは身体にもう未練なかったからね。その身を呈して守ってくれた。私があこの身体を犠牲にした産み方をしたのではなく、あこが守ってくれたのだと信じている。

入院おぼえがき:2日目、3

午後は、足浴や頭を洗ってもらう。足浴は担当の助産師さんがしてくれた。助産師さんが、明日は夜勤なのだという。なんと、、!明日はあの処置室での痛さをどうやって、耐えればいいのか、、そして、お腹をなでてくれながら、明日の夜出てきたらいいね、そしたら立ち会えるんだけどなとあこちゃんに話しかけてくれる。実はこの助産師さんは、私達のあかちゃんの名前が「あこ」であると初めて教えた人でもある。胎児名だったので、順調な時は誰にも教えるきはなかったのだが、夫と私しか知らない名前を入院中にお披露目したのだ。足欲はアロマをいれてくれて気持ちよく、他の看護師さんに頭を洗ってもらって、髪の毛まで乾かしてもらった。

夕方、また座薬をもらって入れる。30分後に処置室。これが、最大に痛かった。朝よりおお泣き。痛さでこんなに泣けるとは、、ラミナリア18本を抜き、26本入れる。休憩をはさみながら、耐える。あんなに痛かったはずのに、1週間後の今は、どんな痛みだったか正確には思い出せない。痛さって忘れるんだな。痛かったと思ったこと、もう入らないと思ったこと、血みどろであったこと、こんな処置どうやってみんな耐えているんだろうと思ったことだけを覚えいている。

処置が終わって、ふらふらになりながら、ベッドにうずくまり、お腹をなでながら、あこちゃんにどうか明日つるっと出ておいでと声をかける。この時点でも出すことに必死であった。

言われて嫌だったこと

とりあえず、今は夫以外とはあんまり話たくない。お世話になった自分の親ですら、電話はまだ難しい。

そんな中で、あんなにお世話になった母なのに、言われて嫌だったことがある。夫が日中いない平日が始まると、つらい1日が始まるねとか苦しい1日だったねとかラインがくる。親かららの私への愛情もよくわかるけれど、あこちゃんが苦しさやつらさを与える存在であるとされることがすごく嫌だった。お外に出して満足しているし、どちらかというと、お骨でそこにいてくれるだけで、すでに私の人生を彩ってくれている。幸せや安心を与えてくれている存在なのに。まあ、過剰反応なのだと思うけれど、これからも連絡くれるわけだから、あこちゃんが苦しめたりしんどがらせたりする存在であると意味することを言われるのは嫌だということを伝えました。